「よい休暇を過ごせ」という幻想

2025/05/13 0:32

ゴールデンウィークはもう終わってしまいましたが…(本当はゴールデンウィークが始まる前に書こうかと思ってたのですが)

大型連休が始まる前などによく、「さあよい休暇を過ごすぞ」みたいな気運の高まりを感じます。来る連休において、私は充実した日々を過ごすのだ。決して怠惰で漫然と、貴重な余暇を貪ってはならない。終わってみて「よい休暇だった」と思える休暇を過ごそう。それ自体はストイックでポジティブな心掛けです。ただ、それが逆に強迫観念じみてくるときがある。私は一体今よい休暇を過ごせているのだろうかと。ああ、私の休暇はもっと充実して輝かしいものであれたのではないか。そう思い始めると、大型連休をどう過ごしているかに関わらず、大型連休そのものが息苦しくさえなります。

さて、そんなある種息苦しい気運の高まりがある背景には、多分いくつもの要素があるんだと思います。例えば、どう過ごしているかをリアルタイムに発信できるSNSとか。ただ、いろんな要素をわきに置いておいて、私が今(単に感情的に)「これだ」と挙げたいものがある。それは、「よい休暇を過ごしてほしいのは誰?」という側面です。

「休暇」の裏には休暇でない時間があります。それはたいてい労働(学生の場合は学習)です。労働は多くの場合誰かに管理されています。管理者は労働者の休暇に何を期待するでしょうか。恐らく、疲労を回復して心身共にリフレッシュして、生産性を回復してほしい、だと思います。大量生産社会からワンステップ進んだ現代ではそれに加えて、ユニークな経験を得て新たな発想を切り開き、それを労働に還元してほしい、みたいなこともあると思います。要するに、大型連休を経た労働者は非常にエネルギッシュであるだろうと。よもや休暇があったにも関わらず、心身がすり減っているなどとはあってはならないと。

つまり、「よい休暇を過ごせ」などというのは、管理者の抱いた幻想そのものが無言で押しつけられている姿なのではないでしょうか。私たちは管理者が理想として思い描いた労働者の現身ではなくて、あくまで人間です。そこに自由な時間があれば、ただひたすら物思いにふけるのも、ポテチでも掴んで一日中テレビの前でうだるのも、挙句の果てに寝不足になって眠い連休明けを過ごすのも、やはり自由なはずです。よい休暇の姿に縛られる必要はない。気の赴くままに過ごせば、それがよくも悪くもない、私の休暇なのではないでしょうか。

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