洞窟の比喩という考え方があります。
人々は洞窟の中で縛られながら、壁に浮かぶ影絵を見ている。人々は影絵が世界の真実だと信じている。だが一人が拘束を解いて立ち上がると、それが影絵であることに気付く。その人は洞窟を出て外に出て、太陽を発見する。
古代ギリシアの哲学者プラトンによって唱えられたものです。より正確で詳しい内容は他を調べてもらった方がいいかもしれません。
この考え方が示唆したかった話とはひょっとするとずれてしまうかもしれませんが、この比喩に用いられたモチーフが「影絵」であることにちょっとした現代との近似性を感じました。
スクリーン越しの対話と対面での対話は何が違うのか。通信環境だとかそういう要素は排するとして、コミュニケーションに必要な要素は充足しているはず。けれども、同じ時間、同じ相手、同じ状況で、スクリーン越しに行っている対話がもしも対面だったら。その内容は必ず違うものになるだろうという、根拠のない確信をこの数年間で知らず知らずのうちに体得していった気がします。
テレ・コミュニケーションに依存する状態は自身の肉体性の否定であるように思います。電子情報に変換された自分には衣食住の必要性がありません。肉体を持つ自分との離反がそこには生まれる気がします。
それぞれ人々が違う洞窟に繋がれて違う影絵を見ていたとすれば、他人の解釈する(比喩が言うところの)世界の真実はまったく違ったものになってくるでしょう。洞窟Aの住人と洞窟Bの住人が対話するというのは最早異文化コミュニケーションです。ここ数年の趨勢として、この「異文化コミュニケーション能力」が人々の間で磨かれているのか放棄されているのかは…どうなんでしょう。人に依るかもしれませんね。
今年を振り返って思いついたことを書き連ねてみました。来年は穏やかな一年になることを強く願います。