昔、社会人になったばかりの頃、まわりの人たちの「言葉の遣い方」に強い抵抗感を覚えたことがあった。あいまいさをなくし、主観的な表現を排し、むだと「認識齟齬」をきらう。伝えたいことがそこにあるとすると、それらの言葉遣いはそれを四方から定規で囲み、徐々に狭めて、追いやっていくようだった。私にはそのような言葉遣いがひどく息苦しかった。大学にいた頃に手にした「自由な言葉」が、そこでは否定されていたような気がした。今となってはそのような言葉遣いにもすっかり慣れてしまったが、そんな感情があったことをふと思い出した。
大学で文系の学問を修めていた頃、言葉は水面に投げる小石のようだった。ひとつの言葉が波紋を広げ、つぎつぎと意味を押し拡げていく。それが次の発想を喚起して、波紋が連鎖する。そのような試行の先に、新たな気づきがあった。
今では、「社会人的な言葉の遣い方」の便利さも、それがなぜ必要とされているかもわかる。だが、そのような言葉遣いが、組織において連携作業が必要とされる場面の外でさえも、ありとあらゆるところでスタンダードになり過ぎている気もする。
何かを規定するための言葉は、まるでビンに貼るラベルのようだ。ラベルによってものを識別することに慣れてしまうと、ビンの中身が変化していたり、あるいはまったく異なるものに置き換わっていたりしても、なかなか気づきにくい。
ラベルに囚われないために、言葉を檻から解き放って、遊びに行かせてみたい。
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