この頃、以前起きた悪い出来事をなんの脈絡もなく思い出します。何か特定の事物にまつわる出来事ではなく、時間も内容もさまざまです。このようなことは半年前、感染症の災禍により外出の機会が減ってから起こるようになりました。
この事象は災禍という大きな出来事が関わっている以上、一定の公共性がある問題なのではないかと考えています。災禍にまつわる大きな出来事に対する理解の取っ掛かりを探る意味も込めて、なぜこのようなことが起きているかについて自分なりに考えてみようと思います。
先に挙げた事象と同じような声を私は見かけたことがありませんが、他方、災禍による外出自粛以降に時間の感覚が変わったという声はウェブ上の記事やなどで度々見かけました。曰く、以前よりも非常に早く時間が過ぎていくそうです。私としては、半分分かるような、逆に部分的には遅くなったようなと、分かるようで分からない複雑な印象を受けました。
ここであえて立ち止まって考えなければならないのは、時間の二面性に関する問題です。時間には物理的で定量的な時間と、個々の内にある非定量的な時間の二つがあり、時間という言葉はしばしばこの両者を孕んで未分化なまま使われているように思います。例えば、先に挙げた「早く時間が過ぎていく」ように感じるのは人の内側で起こっていることなので、この時間は後者の非定量的な時間にあたります。一方で、物理的で客観的、共有可能な指針としての時間は、時計などで表現されているもので、一旦「可視のものである」としてここでは深いツッコミは加えないことにしますが、個々の主観的な時間の感じ方とは無縁で進んでいます。
「早く時間が過ぎていく」に見られるような時間の進みに関する現象は、物理的な時間と主観的な時間の不整合によって起こると考えています。主観的な時間の進み方が遅くなった場合、物理的な時間が相対的に早く感じられるわけですから、「早く時間が過ぎていく」という事態になります。
つまり、外出自粛以降に時間の感覚が変わったという事象は、主観的な時間の進みが遅くなったという捉え方ができると考えています。では、それ以前まで個々の中で時計の針を進めていたものは何だったのでしょうか。
これについては諸々あると思いますが私は、出来事、とりわけ他者同士のコミュニケーションに端を発するものであると考えています。ここで括弧書きですが、コミュニケーションという言葉は現代において所謂「コミュ障」と言うような文脈で狭義に捉えられがちではありますが、直接的でないものやノンバーバルなものも含めたより広義の意味を念頭に置いています。イベントへの参加や知人との世間話など、そういった他者同士のコミュニケーションの機会が大きく損なわれた時間を過ごさざるを得ない状況に置かれています。コミュニケーションに端を発する出来事が刺激となり、日々を差別化し、個々の内にある時計の針を進めている側面があるのではないでしょうか。
最初に挙げた事象はこの問題と通底していて、新しい出来事が乏しい状況であるから昔の出来事が喚び起こされているのではないか。というのが今の私の考え得る限りのことです。精神的に後ろ向きになりがちな情勢も相まって。新しい出来事を起こそうと試みてはいるのですが、リモートでのコミュニケーションはそのような点では少し役不足であるように思います。ノンバーバルコミュニケーションに欠けるからでしょうか。それとも、場所の側面では同じ出来事を共有できていないからでしょうか。
ところで、本筋とは関係ないですが、何かを作り出す創作活動というものは自分の中の時計の針を進めるのに有用であるように思います。うまく言えませんが、創作活動が自己対話である側面が関係しているように思います。それが自分の中で時を刻むひとつの出来事たり得るのではないかと。