なぜ「語彙力」に対して予防線を張りたがるんだろう

2020/07/08 23:09

最近主にネット上で見かけるスラングに、文末に「(語彙力)」という括弧書きを置くものがあります。
具体的には、

「〇〇ちゃんめちゃかわいい(語彙力)」

だとか、

「この動画の〇秒で△△が一瞬髪なでるとこ、さりげなさとかやさしさあふれててなんかもうホァァァァってなる(語彙力皆無)」

といった感じですね。
2つ目の例が説明するように、「語彙力が足りない」を表現するために「(語彙力)」を使用します。Twitterや動画のコメント欄などを中心に広がりを見せ、主に10~20代の若年層が使っている印象です。

私はこのスラングを使用する側ではないので、最初このスラングが流布し始めた頃、なぜそんなに語彙力に対してやたら卑屈になるのか、予防線を張りたがるのか不思議でなりませんでした。1つ目の例のように言葉ひとつに対して「語彙力が足りない」とするならまだしも、言葉を尽くし切った後に「語彙力が足りない」とする例もままあります。では逆に、どのような語彙によって表現すれば「語彙力が足りない」と卑下するに至らなかったのか、その表現で事足りているのではないかと。

今から5~10年前くらい前に一時期、「かわいい」という言葉によって美しいも麗しいもすべて解決しようとしている、「やばい」も然り、こうした若者言葉は人々から語彙力を奪う!日本語文化の衰退を招く!みたいな論調を耳にしたので、そうした流れによって若年層に卑屈を植え付けたのかな。と思ってはみたのですが、いささかしっくり来ず、かといっていい理由も見当たりませんでした。

そうしてしばらく謎のままだったのですが、ある時頭を巡らせていてふと思いました。 人間側の語彙力が足りていないのではなく、時代が感情の共有にあまりにも多くの言葉を欲しているのではないか。多様化や情報化によって人々の間で共通経験が著しく減少したからこそ、湧き出る感情を共有するためには数多の言葉による説明が必要になったのではないか、というのが現在の私の1つの結論です。

例えば身近なところでいくと、20年前はネットが発達しておらず、日頃の娯楽といえばテレビや小説など限られていたんですよね。限られているからこそ、自分が見てる、知ってるものを同様に知っている人が多かった。そういった共通の経験は思考形成のバッグボーンとなるので、共通経験が多ければ多いほど異なる思考を持つ他者との間の意思疎通においてもあまり言葉を必要としない。

けれども多様化が推し進められると共通経験が減ります。経験を異にする相手と意思疎通を取ろうとすると、そうした経験=思考の溝を埋める必要が大きくなる。こと感情のような抽象的な対象であればなおさらだと思います。ましてやSNSなどのような誰に向けられた言葉かが曖昧な装置であれば、想定する相手との経験の違いも測りきれないでしょう。

だからこそ、多様化の煽りを受けた教育を受け(自分も他人事ではないが)、多種多様なコンテンツから自分の好みのものを選択する権利を得た現代の若年層こそ、燃え上がる感情の共有に苦しみ、自身から紡がれる言葉の無力さを嘆くのではないか。
この「(語彙力)」の亜種に「(伝われ)」(使い方や文脈はほぼ同じ)がありますが、これもそういった理由なのではないかと考えています。

冒頭の挿絵でいくと、想起する赤色がみんなだいたい同じだったのが、近頃になって朱色やうすだいだい、ワインレッドなどいろんな色を想起するひとが出てきた、といった感じでしょうか。

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